永遠 ―「時間を超える」ということ―

「過去はない」この言葉を真実として認識できたとき、意外にも涙があふれ出したことがあります。

「過去はない」「今」しかない。

…けれども私の「思い出」は今も厳然としてあります。私が大事に思う人との思い出。なつかしい思い出…。

「過去」は無く、もう別れてしまったと、私が思っている人々も、別れたのではなく、「今」「ここに」共にいる…。

「過去」は無く、もう失ってしまったと私が思っていた、楽しかった日々は、失ったのではなく、「今」「ここに」私の中にある…。

それが、理屈ではなく、本当にそう感じられました。

これは大きな気付きでした。

また、こんなことがありました。

車を運転しているとき、前方の歩道を、腰を曲げて、荷車を押しながら歩くおばあさんが見えました。何となく、ああ、このおばあさんにも若い頃、子どもの頃もあったんだなあ、と思いました。子どもの頃のおばあさんの姿と、今のおばあさんの姿を、想像の中で重ね合わせたとき、何故か、感動が起こりました。

異なる時空を重ね合わせてみてみると、何かしら、感動のようなものが起こります。

たとえば、若かった頃の父母の姿を、現在の年老いた父母の姿に重ねてみる…現在の子どもたちのかわいらしい姿と、未来の姿、大人になったときの姿、老人になったときの姿、さらにその子の臨終の時の姿を重ねてみる…

そしてそれらの「時」は、それぞれに分かれたものではなく、実はひとつなのだと思ってみる…

過去、現在、未来…と、人の姿は変わっていくけれど、それは物理的表現の変化の軌跡に過ぎません。根底には、不変の「その人」があるだけです。

そのような視点から見ると、人間とはとてつもなく不思議で、すばらしい存在です。ただ私たちは、それを具体的に味わうために、時を旅しているに過ぎません。

私の体や心は、時とともに変化するけれど、それは本当の私じゃない。本当の私は、過去、現在、未来、すべてを包含したものだ…。過去、現在、未来、すべては私の内にある。つまり、本当の私は、時間を超えた存在だ、と思えました。すると、小さかった頃の自分、苦労したときの自分、悲しかったときの自分、でも、けなげに生きてきた自分…すべてがひとつになったように感じ、とても愛しく感じ、こみあげてくるものがありました。

なあんだ! 自分はなんにも失ってなどいなかったんだ!と思いました。

楽しかったあの日は実は失われたのではない。

大切な、今は亡き人々も、実は亡くなってなんかいない…。

人間は実は「時」を超えることができる存在なのだと思います。

この心の中では「過去」も「現在」も「未来」もひとつに存在する…。

私たち人間とは、限りあるものを、「永遠」へと変えていくことができる存在なのだと思います。