祖母
23才の時に描いたものです。
時代の流れから取り残されたような古い家で、
テレビを見る家族の後ろにいて、
家事で荒れた手をさすっている祖母の姿です。
取り残されたというよりは、
時を超えてあるものの姿、
その、あかぬけないけれどなつかしい姿を描きたいと思って、
本人の気付かないうちに30分ほどで描き上げました。
- 1982
- ボールペン,水彩・紙
- 16.2×14.0 cm
23才の時に描いたものです。
時代の流れから取り残されたような古い家で、
テレビを見る家族の後ろにいて、
家事で荒れた手をさすっている祖母の姿です。
取り残されたというよりは、
時を超えてあるものの姿、
その、あかぬけないけれどなつかしい姿を描きたいと思って、
本人の気付かないうちに30分ほどで描き上げました。
夏の頃、
夕食後に居間でテレビを見ている父の姿です。
これも本人が気付かないうちに描きました。
昔、家族で釣りに行った思い出の場所…。
第一子誕生直前に、
妻と訪れたときの風景です。
かつて高校で勤めていたとき、
演劇部の依頼で、
劇中の小道具として描いたものです。
当時小学3年生だった私の娘が
モデルになっています。
もう何十年も前、
街角で出会った人の姿です。
「神」というものを擬人化するならば
こんな姿になるのではないかと、そのとき思いました。
この絵を見てくれた人のうち、何人かの人が、
これまでの人生で出会ったとても大切な人に似ている、
と言ってくれました。
いずれも、本当に大切なことを、言葉ではなく、
その姿によって教えてくれた人物であったということです。
26年間勤めた公立学校の教員を辞めて一番よかったことは、
家族と一緒に過ごす時間が増えたことです。
私には3人の子どもがいますが、
時々、一番下の子どもを迎えに、
幼稚園に行くようにもなりました。
これは6月頃です。
先生にさよならを言って帰るとき、
何を思ったのか、
園庭の外階段を少し上り、
空を見ていた子どもの様子を、
ふと描きたくなりました。
私の子どもたちが通った幼稚園には、
こんな素敵な一画があります。
4月の真昼。
若くてかわいらしい
命の力あふれる空間です。
太陽が照りつける真夏の午後です。
スケッチをしていた時、
麦わら帽子の人が通り過ぎていきました。
白いシャツに陽の光が透けて美しく、
残像のように心に残る、
真夏の白昼夢のような光景でした。
1997年8月の夕方、
近所を散歩してスケッチをしました。
そのままスケッチブックの中にしばらく眠っていたものを、
たまに取り出しては色をつけていき、
2003年の個展にはひとつの作品として出品しました。
絵というものは、命と同じように、
生まれ、育つもののように思います。
それは作者の力によるものではありません。
だから自分の都合でこの日までに仕上げようなどと思っても、
そううまくいくものではありません。
近所の景色です。
自転車で踏切を渡ろうとしたときにふと右を見ると、
西の空の入道雲が青く美しかったので、
いつも持ち歩いているB5のクロッキー帳に
水彩色鉛筆で描き始めました。
他に水彩やクレヨンも併用していますが、
色々な特性を持つ材料を
その時その時の気持ちで、
最も使いやすいと思われるものを選んで
描くのは楽しいものです。
これも、それほど昔の風景ではありません。
高等学校に赴任した1995年、
美術室南側の風景です。
明るい五月。
ここには昔ながらの
なつかしい何かがある、
と思いました。
10月頃、
すがすがしい秋の空気に誘われて、
描かずにはいられない気持ちになりました。
野の草花の中には、妖精たちがたくさん住んでいそうです。
身近なところに、天国のような世界があります。
妻の実家のトイレです。
もちろん生けられた花は美しいと思ったのですが、
白熱電球の光に照らされた窓枠の木や、
古いガラスのくすんだ色、壁の色など、
この場の醸し出す温かくてなつかしい雰囲気に惹かれました。
1993年に、縁あって、
米国カリフォルニア州にある
シャスタ山を訪れる機会に恵まれました。
そのときに泊まった
温泉宿のレストランです。
1998年に行ったサーカスの思い出です。
サーカスというのは、
テントによって日常とは区切られた夢の空間ですが、
このときおもしろかったのは、
ベンチの下に、地面に生えた草と、
そこに太陽の青白い光が当たっているのが見えたことです。
明るい外の世界と、暗くて少し妖しい内なる世界
…2つの世界のはざまにいるようで、
とても不思議な感じでした。
幼い頃、
日曜毎に両親に連れていってもらった動物園です。
雪の日にも行ったといいます。
今は郊外に移転していますが、
かつて徳島市立動物園は市街地の中にあって、
身近な異空間でした。
右端、キリンの太郎と
インドゾウの花子はとても仲がよく、
昔何かのテレビコマーシャルにも
登場したことがあるようです。
動物園の隣は、
小さな遊園地「児童公園」でした。
この絵を描いた頃、
児童公園の側からも、フェンスを通して
こんな風景を見ることができました。
「かごめ」の歌の「かごのなかのとり」という言葉は、
この世の空間というものに秘められた神秘を
表現しているように思えてなりませんが、
ケイジというもので仕切ることによって、
よりその意味を際立たせている動物園の空間は、
私に多くの夢を与えてくれました。
今はその仕事を終えて、納屋の中に休む乳母車です。
動物園の檻、乳母車がある納屋の隠れた小さな空間…
それら何かによって仕切られ、限定された空間には、
何か不思議なものが宿っているような感じがすることがあります。
この世ならぬ何か不思議なもの…
私が好きな「汚れなき悪戯」という映画の中で、幼児マルセリーノは、
入ることが禁じられた納屋の中で神に出会います。
またC.S.ルイス「ナルニア国物語」で、
別世界ナルニアへの通路は、古い衣装だんすの中にありました。
そのようにこの世の空間というものは、
実は大きな可能性―不思議が実現する世界とつながる可能性を
秘めているのかもしれません。