夕暮れ 眉山の桜
桜の花咲く夜の眉山(徳島市の中心部にある小高い山)は、
いつも私になつかしさを感じさせる場所です。
山道に沿って咲いている桜を
素朴な裸電球がぼんやりと照らし出し、
そこはまるで夢のような景色になります。
これは夕闇迫る頃を描いたものです。
- 1996~1998
- アクリル・キャンバス
- 72.7×90.9 cm
桜の花咲く夜の眉山(徳島市の中心部にある小高い山)は、
いつも私になつかしさを感じさせる場所です。
山道に沿って咲いている桜を
素朴な裸電球がぼんやりと照らし出し、
そこはまるで夢のような景色になります。
これは夕闇迫る頃を描いたものです。
桟敷の店の暖かな光、
宴会をする人影、
道行く人影も、
心の奥にある大切な何かを
蘇らせてくれるようです。
残念ながら1999年を最後に、
この場所のお店はなくなりましたが、
10年間、桜の咲く頃になると
毎夜のようにこの場所に出かけて
絵を描きました。
眉山の花見散策コースは、
山の中腹、尾根づたいの道です。
地形は結構複雑で、
神秘を感じさせる場所でもあります。
これは前頁の作品の場所を、
違う尾根から眺めた景色です。
あかりに照らされて
おぼろに浮かび上がる桜と、
そこにうごめく人影 …
決して表現し尽くされることはない美しさです。
Ⅱの場所からすぐ、
下に向かって石段が続いており、
見下ろすとこんな景色です。
おぼろな、春の夢です。
眉山花見散策コースの一方の端には、
徳島名物、創業300年といわれる
「滝の焼餅」のお店があります。
幼い頃、
祖父によくそのお店に連れて行ってもらいました。
確か夕方、
花見桟敷の店の前も通りかかったような記憶があります。
或いは、夢かもしれません。
近所の八坂神社、祇園さんの夏祭りです。
現代のお祭りですが、
裸電球に照らされて浮かび上がる人と露店、
その光と影の入り乱れる景色には、
とてもなつかしいものを感じます。
もう20年以上も取り組んでいるモチーフです。
夜の露店は本当に美しいと思います。
光と影と色彩の洪水が、
この世ならぬ世界へと誘います。
それを味わいたいがため、
夏祭りの一週間は毎日のように通います。
けれどもその美しさは、
表現し尽くされるものではありません。
夏祭りの一週間、
私が毎日のように通うためか、
私の子どもたちも
大のお祭り好きになってしまいました。
家族で一緒に行った、
大切な思い出の一コマです。
祭の晩は不思議です。
神社の木の間の向こうに、五色の提灯が見え隠れし、
その向こうはもう別世界です。
ほの暗い闇にはお祭りから帰っていく家族連れ。
古いアパートの二階からそれを眺める人々の影が美しい。
また時々車のヘッドライトに人影が浮かぶのもおもしろいです。
画面中央は徳島大学歯学部の近代的な建物ですが、
これらすべてを月の光が優しく包み込んでいて、
何とも言えない景色でした。
以前、眉山の麓にある小さな住宅に
住んでいたことがありました。
これはその付近の、
夜の風景です。
私は1959年、昭和34年生まれですから、
高度成長期以前の世界を知っている
最後の世代とも言えるでしょう。
幼い頃なので、おぼろな記憶の時代ですが、
だからこそ強い印象が残っています。
それはなんとものどかでなつかしい印象です。
私たちは物心ついてから、
そのなつかしいものたちを
失い続けてきた世代であるとも言えます。
だから一層、消えゆくものたちに対する愛着の念を
持つのかもしれません。
これは近くの町の風景ですが、
絵を描き始めて間もなく、
この八百屋さんも閉められました。
妻の実家を訪ねたとき、
帰り際に蘭の置かれた玄関の一隅に心惹かれ、
それから何日か通って描かせてもらいました。
夜のあかりが、
磨り硝子に透けて玄妙な翳りをつくり出し、
花の色をさらに美しく見せていました。
このように、
伝統的な日本家屋には美しい闇があって、
深い感性と夢を育んでくれたものでした。
私の妻です。
結婚の前年、
妻の実家からの帰りに、
見送ってくれたときの印象です。