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2.「純粋に描く大切さ 師・津田季穂について」

2004年、徳島新聞社文化部の方から依頼があって、「出会いの風景」という欄のために書かせていただいたものを御紹介しておきたいと思います。
私が最も大きな影響を受けた師について書いたものです。

「純粋に描く大切さ」という表題は、徳島新聞社の方で付けてくれたものです。

出会いの風景<54>  純粋に描く大切さ

津田季穂(つだすえお)。最も敬愛する画家。隻眼・隻脚のカトリック修道士。私の人生のあり方に深く影響を与えた人。生涯の師である。
1899(明治32)年、栃木県生まれ。父・神吉翕次郎は徳川公爵(十五代将軍慶喜)の主治医であった。
15歳のとき、事故で右目を失ってから画家を志し、17歳で日本美術院展に入選。将来を期待されたが、画壇の人間関係の醜悪さに愛想を尽かし、二十二歳のころから各地を放浪している。
1943年、43歳でカトリックの洗礼を受けたのち、鳴門に移り住み、戦後間もなく発足した地元の絵画グループ「ベニウズ」に参加。以後、その精神的支柱となる。戦争で多くのものを失った時代、彼の語る言葉は真の豊かさを求める人々に大きな慰めを与えた。彼の教えに触れ、信仰に導かれた人も多い。
60歳で修道士になり、高知、福岡の教会を経て68年に阿南の教会に赴任。最晩年に再び鳴門に帰り、81年、81歳で生涯を閉じた。
私の父母も彼との出会いがきっかけで、洗礼を受けており、彼の話は幼いころから時折、聞かされていた。
私が実際に彼に会ったのは68年のベニウズ展会場だった。当時9歳の私に「じっと絵を見ていましたね。絵が好きなんですか。中学生になったらいらっしゃい」と声をかけてくれた。
子供心にも、それまで会ったほかの誰にも見られなかった厳しさやおごそかさといったものを感じるとともに、その目や笑いの中に、この上もない優しさのようなものを見た。以来、彼は私にとって特別な存在となった。
高校2年の春、私は生涯絵を描き続けようと決心したが、そのきっかけとなったのは、画集の巻末に載っていた彼の言葉である。「私は思う、偉大な壮麗な、人を驚倒させるような、所謂(いわゆる)一大惑星となるよりはむしろ野に咲く名も知れぬ小さな花となることこそ望ましい。ダリヤやバラにはさほど驚かないが、あの小さな小さな黄色や紫の花をつけた、心なき人に踏みつけられて暫く(しばらく)咲くあれらの花にこそ、もっとも驚くべき神の創造の神秘を見つけませんか。私はあれらの名もない花の美しさを見ると胸が熱くなります。つむことは出来ない。ふみつけるか愛でるか二つに一つ。そんな画家になりたい—」
「ああ、こんな生き方があるのだ」と私は思った。
絵を描くことを通して自然と交流し、何か非常に純粋な美しさを発見する。しかし、それら真の美は往々にして人々にないがしろにされているものだ。けれども彼のように、そのようなものをこそ大切にしていきたいと思ったのだ。
今もこの言葉は、人間にとって本当に大切なものとは何かを思い出させてくれる。
この年の秋、彼に弟子入りした私が特に教えられたのは、純粋な動機、つまり、見る対象への畏敬(いけい)と素直な感動以外には絵を描かないという姿勢であった。
筑波大で美術を学んでいた3年生の夏、描いた絵を見てもらいにいったが、「ちょっと飲みに行きましょう」ということで、鳴門のとある路地にある大衆食堂で、コップ酒を飲みながら長時間二人で話し込んだ。このとき聞いた言葉も忘れられない。「とにかく常に描くこと。純粋に描き続けること。意図的にならないこと。そして無名で通すこと。そうすれば神様は決してそういう人をほっておかないんですよ。」本当に大切なものを、素直に単純に、全力で大切にしさえすれば、人間は必ず真の幸福に導かれるということを教えられた。
美術教師になって10年余り後、鳴門教育大大学院で研修を受けた際、彼についての論文を書いた。このとき、その生涯を調べていて、彼の生き方に最も大きな影響を与えたのは母なのだ、とあらためて気付かせられた。右目を撃たれ、危篤になった彼の看病疲れがもとで亡くなった母。やさしく物静かで、それこそ「小さな花」のようだった母。はらわたもちぎれるような悔悟の後、目には見えなくなったが、心の中に生き続ける母の存在の向こうに、彼は神を観たのだと思う。
本当に大切なものは身近にあるのだ。彼のように、それに生涯を捧げたいと、今も思う。

津田季穂年譜
1899年(明治32) 11月23日、日光に内科医長、神吉翕次郎、いせの五男として生まれる。
  1901年(明治34)富山、1905年(明治38)敦賀、1907年(明治40)東京小日向町、1912年(明治45)音羽に移る。
1914年(大正3) 11月、従兄の猟銃を書生が持ち出し、右目に向けて「撃つぞ!」と言った。「撃て!」と答えると発射。生命危篤となり、翌未明東大病院に運ばれ奇跡的に助かるが、このときの心労がもとで母を失う。
叔母の津田姓を継ぐ。
1917年(大正6) 3月、京北中学校中退。洋画家、高橋芝山のもとに通学、デッサンを習う。半年程で止め太平洋画会に通う。同会には中村不折、関根正二らがいた。目白に下宿し、以後、下宿を転々とする。
1918年(大正7) 通学一年ほどで太平洋画会を止める。
1919年(大正8) 日本美術院展に「山村」を出品(※1)。入選して美術院に入る。当時石井鶴三、保田龍門などがいた。
1922年(大正11) 日本美術院洋画部解散。春陽会が生まれる。この事件に人間関係の醜悪さを見せつけられ、以後展覧会を離れる。しかし、村山槐多、今関啓司、坂口右左視、小柳正などとは交友関係にあった。
1923年(大正12) 関東大震災後、大阪に住む。
1924年(大正13) 排日運動盛んな上海に身一つで渡る。
1926年(大正14) 帰国。漁師になろうと思い立ち、和歌山県田辺に住む。
1929年(昭和 4) この頃、ケーベル博士に傾倒して、世界観の変化。
1935年(昭和10) みかん山を栽培しようと思い立ち、兵庫県に住む。植えつけて去り、名古屋に行く。
1936年(昭和11) 二・二六事件のあと帰京。長崎町のアトリエ村に住む。
1939年(昭和14) 牛込横寺町に移る。稲垣足穂と知る(※2)。児玉花外の還暦祝いに肖像画を描く。丸山薫、石川淳、辻潤、衣巻省三らと会う。
1940年(昭和15) 稲垣足穂の「山風蠱」を装丁。水守亀之助の主宰する雑誌『野火』に特集される。
1943年(昭和18) 関口教会沢出神父の司式で洗礼を受ける。洗礼名ヨゼフ。受洗後、鳴門に行き、大村正邸に住む。
1944年(昭和19) 徳島で空襲に遭う。一時東京に帰り、再び徳島へ。田中神父(後の司教)のもとに投ずる。
1945年(昭和20) 結核性骨膜炎に罹り、右足切断。東京小石川徳川邸で終戦の詔勅を聴く。赤穂、高知、東京、鳴門などを行き来する。
1947年(昭和22) 鳴門大村家の二階に住む。鳴門の画家のあいだに生まれたベニウズに参加。
1948年(昭和23) 3月、ベニウズ第三回展に出品。以後毎年出品する。この頃特に布教の成果は目ざましく、受洗者の中から司祭、修道女が輩出。ポーロ二世とニック・ネームを付けられる。
1950年(昭和25) この年より徳島カトリック教会司祭館離れの家屋に住む。
1952年(昭和27) 12月8日、安芸オブレート会修練院で着衣式。布教と観想の生活。
1959年(昭和34) 12月8日、安芸、海の星教会で修道終生祈願。
1960年(昭和35) 福岡古賀教会に赴任。療養所を主とする布教活動に従う。当時、古賀福寿園で療養中の高橋睦郎を知る(※3)。
1967年(昭和42) 福岡フォルム画廊で個展。
1968年(昭和43) 徳島県阿南教会に転任。11月、画集出版。
1970年(昭和45) 鳴門市撫養町斉田に住居兼アトリエを持ち、週の半分を阿南で、半分を鳴門でという生活がつづく。ヨーロッパ旅行。
1971年(昭和46) 大阪日動画廊で個展。
1972年(昭和47) 東京日動サロンで個展。呉茂一、鷲巣繁男、吉岡実と知る。大阪日動画廊個展。沖縄旅行。
1973年(昭和48) 大阪高宮画廊で個展。以後1980年まで毎年開催。筑摩書房発行の雑誌『ちくま』5月号(第49号)にエッセー「あの頃と今と」を執筆。
1977年(昭和52) ヨーロッパ・アメリカ旅行。文化出版局発行の雑誌『銀花』第31号に特集紹介される。
1978年(昭和53) ヨーロッパ・イスラエル旅行。
1979年(昭和54) NHK教育テレビ宗教の時間に「光を描く−ある画家の求道」というタイトルで高橋睦郎と対談。アメリカ旅行。
1980年(昭和55) 高宮画廊より画集出版。
1981年(昭和56) 喉頭癌のため4月神戸海星病院に入院、5月神戸市5月神戸市民病院に移り7月23日同病院にて死去。享年81歳。12月、NHK教育テレビ日曜美術館にて、語り手高橋睦郎による「私と津田季穂」のタイトルで、人となりと絵について放映。
1982年(昭和57) 7月、大阪では高宮画廊にて遺作展、徳島では聖母献身宣教会並びにベニウズ主催による遺作展を徳島県郷土文化会館で開催。
1983年、84年、87年、90年、93年、97年、2003年 高宮画廊で遺作展。
1990年(平成2) 十周忌の年にあたり、高宮画廊より「十字架の道行」小画集発行される。
1999年(平成11) 12月、ベニウズ主催による生誕100年記念「津田季穂展」を阿波銀プラザで開催。四国放送おはようとくしまで、「祈りの画家津田季穂~生誕100年」というタイトルで特集される。
2000年(平成12) 11月~12月、徳島県立近代美術館開館10周年記念展「近代徳島の美術家列伝」にて作品2点が紹介される。 
※1徳島県立近代美術館開館10周年記念展「近代徳島の美術家列伝」図録には、「…1919年の日本美術院展初入選を機に日本美術院に入ったとしている。しかし津田の同展への初入選は2年さかのぼる1917年なので、高橋、太平洋画会研究所、日本美術   院研究所に学んだ時期があいまいになる。」とある。
※2稲垣足穂の自伝的小説「弥勒」の中に、津田は「Tという放浪画家」として登場している。他に「幼きイエズスの春に」、「白昼見」などの中にも津田に関する記述がある。
※3高橋睦郎氏の著作「地獄を読む」、「地上 稲垣足穂・津田季穂そして」(1987年『ユリイカ 詩と批評1 特集 稲垣足穂』)、「詩人の買い物帖」、「高橋睦郎のFriends Index友達の作り方」などの中にも津田に関する記述がある。

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